このページは1995年(平成7年)以前に閉校になった学校を訪問し、その時の様子を紹介します。
 他のHPでも紹介されていますので、掲載されていない学校を主に紹介いたします。
 尚、1995年以降に閉校になった学校は「留萌管内の学校紹介」をご覧下さい。 

岩老小中学校 2005年(平成17年)6月訪問

小学校:明治30年1月8日開校 昭和62年3月31日閉校
中学校:昭和25年5月1日開校 昭和62年3月31日閉校

 新聞記事に岩老小中学校の30年ほど前に児童生徒が描いの絵が屋根裏から発見され、その作品展が開催されていることが掲載されました。国道はよく通るのですが、いつでも来られる場所は中々来られないもので今回が初めての訪問となりました。
 現在この校舎は苫小牧の会社の所有となっていて、研修等に使われているようです。この会社の社長さんが自力で修繕した部分や、当時の給食室の煉瓦造りのかまどがあったり、水洗トイレになっていたり、社長さんの思いがかいま見ることができました。
 この展覧会には当時の教職員の方が訪れていたようで私も知っている方名前もありました。私は絵心はありませんが、どの作品もすばらしくこの学校のレベルの高さが忍ばれました。
 体育館は朽ちようとしていますが、校舎の管理が十分されていますので、私小学生時代の面影があり、懐かしさで一杯でした。

校舎全景 左は体育館 右が校舎部分 校舎の表面 体育館
会社の研修所「岩老荘」となっている 小学生の作品 小学1年生の最優秀賞に輝いた作品
中学生の作品 優秀賞の作品

歩古丹小学校 2005年(平成17年)4月訪問

明治25年11月1日開校、昭和46年3月31日閉校

 私が教員になってまもなく閉校した学校ですが、一度も行ったことが無く増毛町に赴任したことをきっかけに行くことにしました。
 国道の橋(岬映橋)から屋根を見ることができます。
 町教委の職員の方から降りることが着る場所を教えていただきました。
 暖かくなると蛇(まむし)がでるということで、この時期にしました。
 トンネル側の駐車場に車を置き、「夕観橋」のたもとから降りることにしました。事前に町教委の方と下見をしたので、登山モードの装備で臨みました。降りるときは木の枝や登山用杖を頼りにして10分ほどで学校に到着しました。
 残っている建物は学校だけで、その周辺に4件ほどの住居跡がありました。狭いところに良く建てたものと感心しましたが、陸路のない当時は船での運搬で相当困難を伴ったことと想像できます。

国道の岬映橋からみる歩古丹小学校  海に面した表面玄関(学校の周りはイタドリに囲まれている)屋根の上に見える青いのは岬映橋  学校の西側(こちらから近づきました)
この手前に住宅跡が3件ほど
 学校の東側(この近くに教員住宅らしき物あり)  教室の入り口(床がすごく痛んでいる)  演台があるので講堂のようであるが、壁はカビが生え、床はうねっていて地面が見えるところもある

 陸路のない、給食物資運搬のため、校長は毎週1回、かんじきをはき、3時間半かけて山道を越え、増毛の街に出かけたと聞く。(昭和60年 留萌管内小中学校長会10周年記念誌より)

左の写真は昭和49年当時

新信砂小学校 2005年(平成17年)5月訪問

大正9年4月1日開校  昭和49年3月31日閉校 昭和49年4月1日信砂小に統合

 一度目は、笹藪や樹木が生い茂っていて見つけることができませんでした。
翌日よく知っている方に案内していただき、現地に行ってきました。
 学校跡は前日探したすぐそばだったのですが、学校までの取り付け道路が笹に覆われていて、学校まで50m程なのですが、歩くことが大変でした。
 学校跡は閉校後に跡地を利用するために整地したため、何も残っていませんでした。

 この下に学校がありました。  人が立っている右側に学校があったようです。  校舎の裏(右)には信砂川が流れています。
 6kmの冬道の買い出し、夏はカメムシやブヨの大群に悩まされる。先生方は、2名の児童の体力増進を重点に、マラソンで坂道を走り、卓球に汗を流した。(昭和60年 留萌管内小中学校長会10周年記念誌より)

左の写真は昭和49年当時

信砂御料小学校 2005年(平成17年)5月訪問 

明治25年4月9日 昭和52年4月1日信砂小に統合

 よく通る道なのですが、なかなか発見できないでいました。
 町教育委員会の方に案内していただき、見てきました。現在は道路工事等の資材置き場になっているようで、低かったグランドに盛り土し、使用していました。
 増毛から行くとゴミ処理場を過ぎて左側に携帯電話のアンテナがあり、これを目標にすると分かります。

体育館があった場所から校舎訪問を臨む
グランドがあったと思われる所は盛り土がされているそうで、現在携帯電話のアンテナが建てられています。
閉校後はしばらく体育館が牛舎として使われていたそうですが、現在は廃墟となっています。 体育館の残骸の一部です。 体育館の玄関か上がり台があったと思われます。
 「振り向けば積もっている」と言う多雪地帯。愛鳥指定校、火災予防、植林事業協力で表彰される。地域の特色を生かした自然を愛し、自然をいつくしむ教育活動は好評であった。(昭和60年 留萌管内小中学校長会10周年記念誌より)
右の写真は昭和49年当時

曙小学校 2005年(平成17年)5月訪問

明治39年4月11日開校 平成2年3月31日閉校

 曙小学校は築別鉱と羽幌鉱の分岐にある学校である。

 この校舎は元々太陽高校で高校閉校後(昭和45年)北辰中学校そして最後に(昭和50年)曙小学校の校舎として使われた
 職員室の黒板は閉校した月の行事が書かれている。書の額は校長室に掲示してあったが羽幌町教育委員会で保管している(現在はない)
 ここが元校舎跡(現在は地域の会館と後ろはゲートボール場になっている
 左の大木の根元にあった看板

太陽小学校 2005年(平成17年)5月訪問

昭和15年12月8日開校 昭和47年3月31日閉校

 太陽小学校へは閉校前に一度訪問したことがあり、また、閉校が「緑の村」として使われましたが、宿泊研修で何回か利用したことがありました。
 今回の訪問は、宿泊研修以来ですので、20年近くご無沙汰したことになります。
 建物はすっかり傷んでいて、学校への橋も通行止めになっていました。

橋を渡ってすぐの表面です。 校舎の西側と円形体育館です。 当時としては大変珍しかった円形体育館です。
 羽幌炭鉱が全盛期の37年頃22学級の大規模校であったが、炭鉱不振と共に児童数も激減し廃校となる。
 校舎は「緑の村」の中心施設で活用される。(昭和60年 留萌管内小中学校長会10周年記念誌より)

平小学校 2005年(平成17年)5月訪問

明治32年11月16日開校  昭和40年3月31日閉校

 「こきりこ」で有名な富山県平村(現南砺市)から移住した方々が開拓した地域です。
地域の文化である「こきりこ」は学校でも踊られていましたが、閉校後は羽幌中央小学校でそして現在は羽幌小学校の子供達が学芸会で踊っているようです。
 この学校は私が教員になる前に閉校したので、一度も行ったことがなかったのですが、上羽幌に向かう途中偶然
校門を発見し、確認しました。

校門と平地域の会館 グランドだったあたりがゲートボール場に
林の中に校舎があったようです
林の中に煙突が残っていました 土台部分は草木に覆われています
 羽幌中央小学校に統合する折通学用バスの購入、停留所待合室の設置、部落集会所建設等が当時の街道教育長と廃校の最低条件として話し合われ決定した。(昭和60年 留萌管内小中学校長会10周年記念誌より)

上羽幌小中学校 2005年(平成17年)5月訪問

上羽幌小中学校:昭和26年12月1日開校 昭和47年3月31日閉校

 写真や記事は直さん(マー君&ノリ君の気まぐれ写真館)から提供受けました。

明治39年4月、苫前郡御料第一として、発足する。その後改称を繰り返し、昭和22年炭鉱が始まると同時に生徒数も増加し、上羽幌小中学校と改称されてからは、多い時で小中学校合わせて18学級にもなった。
 しかし、昭和45年炭鉱の閉山と共に生徒も激減し、翌昭和46年に廃校となり、長い歴史を閉じることとなった。
 在校生は6年生3名、5年生1名、4年生1名、3年生1名の合計6名となり、廃校後は羽幌中央小学校に通うこととなった。
(上羽幌小学校思い出のページ沿革より)

学校の航空写真(昭和44年又は45年) 学校の見取り図 校門
校庭 プール 体育館
旧体育館 小学校廊下 技術・音楽室
中学校 中学校トイレ 中学校トイレ
上羽幌小学校 上羽幌中学校
 昭和37から44年まで、12学級編成で推移したが、羽幌炭鉱の不振から、昭和46年に2学級となり、廃校式は、上羽幌中学校長が兼務して行われた。(昭和60年 留萌管内小中学校長会10周年記念誌より)  昭和40年前後、6学級、教職員10名、生徒数200名台を数えたが、羽幌炭鉱の閉山と共に廃校となる。中学校長は、小学校共々廃校事務に当たった。(昭和60年 留萌管内小中学校長会10周年記念誌より)

太陽中学校 2005年(平成17年)5月訪問

昭和22年4月1日開校 昭和47年3月31日閉校

 太陽小学校に続いて、太陽中学校跡を探して見ましたが、痕跡も確認出ませんでした。
 太陽中学校は私が新卒でいた学校のライバル校で、勉強ばかりでなく、部活動も盛んで、すばらしい成績を上げていました。
 昭和47年4月に北辰中学校に統合されました。

この建物の裏のほうにあったとおもうのですが・・・
知っている方情報下さい。
 40年頃、13学級、生徒数560名で、管内大規模中学校として活躍したが、羽幌炭鉱不振と共に廃校となる。廃校時の校長は、曙小学校と兼務発令であった。(昭和60年 留萌管内小中学校長会10周年記念誌より)

北辰中学校 2005年(平成17年)5月訪問

昭和39年10月1日開校 昭和50年3月31日閉校

 北辰中学校は、私が羽幌中学校に勤めていたときに太陽中学校と共にライバル校であった。北辰中学校の思い出は研究熱心な学校で研究会に参加させていただいたことです。
 北辰中学校は旭ヶ丘中学校と曙中学校が統合し、北辰中学校となったのです。
 昭和50年4月に羽幌中学校の新校舎が落成し、北辰中学校、中央中学校が羽幌中学校に統合し、地方(ジカタ)の中学校は羽幌中学校だけになりました。羽幌中学校の校区が拡大し、家庭訪問が大変でした。

最初にこの位置に学校が建てられました。  昭和47年、生徒数が減少のため、太陽中学校と統合し、太陽高校の後に移りました。
 その後この校舎は合鴨の飼育のために使われました。
 昭和47年から昭和50年まで使った太陽高校の校舎です。
 昭和50年からは隣にあった曙小学校が使用しました。
 39年、旭ヶ丘中学校と曙中学校を統合して新設されたが、羽幌炭鉱閉山により、300人台の生徒が10人台に激減。羽幌中と統合して廃校となる。(昭和60年 留萌管内小中学校長会10周年記念誌より)

大沢小学校 2005年(平成17年)7月訪問

明治38年4月1日開校 昭和44年3月31日閉校

 国道232号線初山別村大沢にただ1軒残る建物が旧大沢小学校である。今までここはよく通っていたが、立ち寄ったのは今回初めてである。
 現在この校舎は民間の人が使っているようである。

国道から見る校舎。玄関には表札があった。 グランド川からの校舎 掲揚塔の基礎部分に立てかけられている標識
 昭和20年頃40人台の児童数を頂点に以降激減し、豊岬小学校に統合閉校となる。国道沿いのモダンな校舎は、そのままの姿で、今も見ることができる。(昭和60年 留萌管内小中学校長会10周年記念誌より)

金浦小学校 2005年(平成17年)7月訪問

明治40年4月15日開校 昭和53年3月31日閉校

 国道232号線沿いの学校で、校舎は閉校になってから、地域の会館として利用されていたが、そのうち取り壊され、現在は教員住宅だけが住む人もなく建っている。

草に埋もれている校門 教員住宅が残っているだけ。この住宅の右側に校舎があった。
30年代の社会情勢の変革は農村漁村にも過疎化現象を生み校下でも離農、漁業団地への移住等児童の減少が進み、遠別小学校に統合閉校した。(昭和60年 留萌管内小中学校長会10周年記念誌より)

産士小学校 2007年5月24日訪問 

昭和60年3月31日閉校

 私が天塩中学校に一般教員としていたときに同じ町内でもあったので、お邪魔したこともある懐かしい校舎である。2度目の天塩中学校に赴任したとき(2001年〜2003年)には閉校後20数年も経っていたので一部屋根が雪の重みで壊れていた。
 今回は退職したことで時間が自由になることから天塩に行ったついでに寄ってみることにした。行って驚いたことは下の写真のように何もないのである。朽ち果てた校舎を見るつらさを思うと何かすっきりしたような心境になった。

 左側の校門の裏は天塩町の建設資材置き場になっている。  松と裸地の間に校舎があった。右奥が右の写真の通りである。  閉校を記念したポールが寂しく立っている。ポールには閉校の日付、学校名、PTA、町内会の名前が書いてあった。
 昭和57年より入学する児童がなく、昭和62年には自然廃校になることが明確になる。児童のいる中で、開校70周年を祝い、天塩小学校に統合することを決め閉校した。(昭和60年 留萌管内小中学校長会10周年記念誌より)

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